2011年6月29日水曜日

【ただちに危険だ! 原発通信】№7

きみは、NNNドキュメント原発爆発 安全神話はなぜ崩れたか」を観たか

このたびの福島原発事故でNHKおよび民放のテレビ局というものは、視聴者をどういう方向に誘導するのか明確になった。

原発が冷却できなくて危機的状況が差し迫っているとき、テレビ局は専門家と称する者を登場させ、「原発はだいじょうぶだ、爆発は起こらない、メルトダウンはしない」という彼らのことばに局アナはうなづいた。

そして原発が爆発して危機が現実になったとき、「これは東電が意図的にベントのために爆発させたものだ」、さらに放射性物質が福島から東北、関東へ撒き散らされ、野菜や家畜、魚介類、飲料水が汚染され、内部被ばくが憂慮されたとき、「ただちに健康への影響はない」という彼らのことばにも局アナはうなづいてみせた。

その「専門家」と「局アナ」の掛けあいによってかもしだされた「安全」「たいしたことはない」「だいじょうぶ」というイメージづけによって、人びとは高濃度の放射性物質が降り注ぐ街を無防備に出歩き、乳幼児、園児、学童は無邪気に校庭や公園をころげまわって遊んだ。

とかく多くの人は自己にわざわいが差し迫ったとき、「だいじょうぶ」だという意見に飛びつく。わざわいが迫っているという状況に耐えきれず、だれかの「だいじょうぶ」という声にすがりついて安心したいのだ。

そしてその声が「公共電波」であり「専門家」であれば、なおさらだ。

だけど、防ごうとすれば防げたはずの放射能汚染を、その専門家とテレビ局によって、むざむざ浴びることになった人がいったいどれだけの数にのぼるのだろうか。

すぐにその「専門家」たちの正体があばかれ、「御用学者」と呼ばれるようになって、さすがに彼らの顔をテレビで観ることはめっきりへったけど、彼らのこの間になした罪はあがないきれないほど大きい。

その後、時間の経過とともに、テレビ局の放送内容が変化しはじめた。もちろん、あいかわらず「節電キャンペーン」という原発延命の走狗の役割を忠実にまもってはいる。

しかし見逃してはならないこともある。原発に批判的な報道が増え始めたのだ。官邸や原子力安全委員会、保安院などはもちろん、それまでタブーだった東京電力への批判も出始めたのだ。

民放は、もう東電から多額の広告費は出ないから、遠慮しないでどんどんホントのコトを言ってもいいんだという思惑がはたらいたのかもしれない。あるいはジャーナリストというテレビ報道者としての良心のウズキが限界にきたのかもしれない。

テレビ各局には、以前からそれなりの「良心的番組」がある。NHKの「報道特集」、TBSの「JNN報道特集」、テレビ朝日の「報道発 ドキュメンタリ宣言」などだ。

そして、もうひとつ忘れてならないのが、日本テレビの「NNNドキュメント」である。

619日の深夜に放送された同番組「311大震災 シリーズ6 原発爆発 安全神話はなぜ崩れたか」は、テレビのドキュメンタリー性の利点が如何なく発揮された秀逸のできだった。

集団登校する福島の小学生たち。長袖の上着とマスク。おさない顔からのぞく悲しみと怒りのまなざしが、向けられたカメラにそそがれ、視聴者のぼくたち大人の胸に突き刺さる。

その彼らの瞳に、原発事故の底知れない恐怖の正体をかいま見る。と同時に、こんな原発という愚かなものを造ったぼくたち大人はいたたまれない罪の意識にさいなまれる。

さらにカメラは、原子力安全委員会委員長である班目春樹のその責任を感じさせない発言に犯罪的な幼児性を、地震学者の狡猾な弁にその薄汚い心性を、あますことなくつまびらかにする。

こんなモノドモが、人類を破局にみちびく能力を秘めた原発推進の、その強力な後ろ盾になっていたのだ、ということもふくめて。

ぼくはこの番組制作者のみなさんに、満腔より惜しみない拍手をおくります。

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